両親の仕事の都合で小学校時代はアメリカボストンの語学学校で過ごした私ですが、その国の言葉、つまりアメリカの場合は英語ですが、英語の文学を読んだり言葉を学ぶ授業を受ける際、文学作品を一冊丸ごと扱うことがほとんどでした。日本の教科書も見たことはありますが、数ページほどの短いお話がたくさん集まっている国語の教科書が定番のようですね。しかしアメリカでは小学校の頃から英語の授業で本を一冊扱います。そして日本の国語の授業のように「『それ』とは何のことか、10文字以内で答えなさい」などの記述式の問題はなく、「なぜ主人公はそう思ったのか、自分で分析して書きなさい」など、思考力や想像力を養うような質問に答えることが多かったです。そしてクラスでディスカッションしたりして、「なぜ」や「自分がもし主人公だったら」など、本やマニュアルに書いていないようなトピックを考えることが多かったです。決して文学作品の一節だけ読むことはなく、丸々一冊読むことが決まりでしたが、毎回本を一冊読み終わるたび、長いストーリーと思考の旅をしたような気分になり、充実感はあったものです。恐らく日本の国語の教科書やストーリーについて答える問題などは「書いてある事実」に基づいているものが多いのではないかと推測しますが、そういった能力も社会では必要なので、アメリカの英語の授業と日本の国語の授業の違いにはそれぞれ良し悪しがあるのではないかと思います。

格安プランでアメリカ留学に行った時、比較的皆さんフランクに接してくれたおかげで、私も本来の自分を出せたような気がしました。こういうと日本を卑下しているようにとらえられるかもしれませんが、帰国後は軽い逆カルチャーショックになりました。

他人との協調を大事にするあまり、遠慮がそこかしこにあり、私から行くとぐいぐい来られているように感じるのか引かれる空気を感じました。これで傷つくことを知り、また元の日本人気質に戻ってしまう人は私以外にも山のようにいるはずです。

できればアメリカのような雰囲気で暮らしたいと思うものの、それを周りに強制することはできない。この居心地の悪さが、やっぱり自分を隠して周りに合わせた方が傷つかないと思わせるのです。個性は一人の人間によって違うのだからと思っていても、やっぱり国民性というのはあるのですね。それをまざまざと感じられるのが、海外にいてから帰国した直後です。住む場所に合わせないと自分が苦労します。